中邑研究室では、毎日、朝会(あさかい)のミーティングが行われます。たくさんのプロジェクトがある研究室ではそれぞれの進捗状況が共有されることが必須です。朝会で取り上げられた話題について、皆様とも考えて行きたいと思います。

今回のテーマは教育です。

「予測不可能な」未来の子供たちは、どのように育成すべきでしょう。抽象的な表現にとどまり、いかに育成するかの具体的手段も示されないていない「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」。これは、未来だけでなく、現実の支援でもありうることではないでしょうか。私たちに必要とされているのは、具体的で実現可能なものではないでしょうか。

2019年4月1日

政府主導の大学改革迷走 根深い演繹型思考背景に オックスフォード大学教授 苅谷剛彦 現実より理念先行/具体性欠く目標

2019/4/1付 日本経済新聞

政府の大学改革政策の迷走を嘆く声が少なくない。苅谷剛彦オックスフォード大学教授は、明治以来の現実よりも理念が先行しがちな演繹(えんえき)型政策思考によるものだと指摘する。

英国から帰国の度に日本の大学人から、改革疲れ、改革への徒労感といった話を聞く。大学改革を進める側の理念と教育現場とのギャップを示す現象である。大学改革が迷走しているといってもよい。

なぜ、迷走は続くのか。佐藤郁哉編著『50年目の「大学解体」20年後の大学再生』への寄稿で展開した私の答えは、「演繹型の政策思考」と呼んだ思考様式にある。

しかも、その根は明治以来の日本近代化の出発点に遡る。日本の現実を丹念に観察し、そこから得た事実から帰納的に思考し、制度を設計してきたのではない。先進する外来の制度と理念を抽象的に理解し、その翻訳と解釈を通じて日本に適用してきた。演繹と帰納の両方を不可欠とする社会科学的思考とは異なる、法学的思考を基礎とした日本型官僚制に根ざした思考様式である。権力の上下関係だけでなく、思考スタイルの点でも、「上からの改革」を進めるざるを得ない習性が現代に引き継がれたのだ。

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その一例が、文部科学省・中央教育審議会の答申「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」である。答申は、未来を展望し、そこで「必要とされる人材と高等教育の目指すべき姿」を描き出す。それをもとに「我が国の高等教育がこれからどう変化していくのか」を明らかにする。

人工知能(AI)やビッグデータなどの技術の飛躍的発展、「人生100年時代」の到来などが未来像として示され、こうした「予測不可能な時代の到来」をふまえて、「専門性を有するだけではなく、思考力、判断力、俯瞰(ふかん)力、表現力の基盤の上に、幅広い教養を身に付け、高い公共性・倫理性を保持しつつ、時代の変化に合わせて積極的に社会を支え、論理的思考力を持って社会を改善していく資質」の育成という教育目標が設定される。

予測しうる将来を展望し備えることはどのような政策領域でも重要である。だが教育政策の場合、「予測不可能な」未来を設定することで、教育の目標を位置づける論法に特徴がある。「予測不可能な」未来に準拠するかぎり、目標設定の根拠となるべき基準は、当然ながら、知りうることはできない。それゆえ、育成すべき資質はどれも抽象的な表現にとどまる。いかに育成するかの具体的手段も示されない。達成すべき目標自体が曖昧かつ多義的だからだ。

他方、これまで以上に高度な目標設定といえる「グランドデザイン」を実現すべき財政支援については、「財政の在り方を含めて社会全体で検討し、将来世代への投資として、必要な公的支援を確保していく必要がある」との具体性を欠いた提言にとどまる。

現状は、図(1人当たり高等教育費負担の推移)に示すように、1980年代以後、政府負担は減少し、家計負担が増え続ける。佐藤郁哉・同志社大学教授の表現を借りれば、「過剰期待と過小支援の矛盾」(佐藤編著前掲書)の露呈である。

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未来志向の印象論に基づく政策提言は抽象的にならざるを得ない。それゆえ、具体性を欠いた目標を現場が解釈していく方法でしか政策の意図は理解できない。ただし、そこで行われる理解や実践への落とし込みが、狙い通りの解釈や実践を生む保証はない。出発点となる教育の目標自体が、抽象的な未来展望から出発する演繹型思考によるからだ。

その目標が達成できたかどうかも判定もできない。そこで求められる資質を具体的に確定することが、論理的にも時間的にも実践的にも不可能だからである。それでも、過去の実績の表現である現実の観察と、そこからの帰納を欠いたまま、政策は立案されていく。

このような政策思考を通じた未来展望によって設定された教育の目標は、中途半端にわかったつもりになるしかない。その意味で、演繹型の政策思考は正しい推論を導くよりも、言葉遊びの周辺で教育論を交わすことや、中途半端に理解したつもりの実践例が紹介されることに終始する。

昨今流行の「アクティブラーニング」は、一見具体的手段の提示のように見えるが、その典型である。学生の参加を求める、小集団での協同学習を進める手法が提唱されるが、学習の外形が活発であることと、実際にそこでいかなる資質が育成されるかの間に、明確な因果関係を想定できないからだ。それゆえ、その評価法も確定できない。個々の教員の判断能力に委ねられる。

演繹型思考に導かれた改革は、政府主導の「上からの教育改革」の印象を与える。ただし、「上から」の意味は、たんに行政指導上の上意下達にとどまらない。演繹型の思考を通じて提唱される教育目標は、抽象的であるがゆえに「上から」の改革となるのだ。教育実践の場では、抽象的・レトリカルに表現された教育目標の意味を斟酌(しんしゃく)しつつ、現場に下ろしていくことが改革の実施とみなされる。

未来志向の政策提言は、抽象的であるがために受け入れられやすい。財政難や人口減などの予測可能な将来への具体的対応(特に財政面)が先送りされることとは対照的だ。「過剰期待と過小支援の矛盾」の放置が許されるのも、私たちが「演繹型の政策思考」に慣れすぎているからである。政策決定が、帰納的政策立案に不可欠のエビデンスを根拠にできない理由もここにある。